三河国の奥の院である設楽町は、南信州へ続く高原の里であり、四季を通じ絶えることの無い山里の恵みを得られる地である。寒狭川の鮎、青鰻を始め、天然自然薯やシメジ、舞茸といった山の幸の宝庫であるばかりでなく、陶芸家にとって必須の陶土も産出する。それも白色カオリンをメインとした信楽丸柱系の蛙目粘土である。
平鉢の天 設楽の陶土と設楽の山中の穿窯を用いての作品
ギャラリー 碧(ペキ)の展示品の一部
全て渥美土を使用
常滑・瀬戸という日本最大の窯業集約地を擁する愛知県に於ける国宝指定の陶磁は、意外にも実は此の地渥美で生まれた古渥美の秋草紋壺と陶製経筒外容器のみであり、前者は慶応義塾、後者は三重朝熊山の金剛證寺の所有である。
古渥美の陶磁史に於ける歴史的位置付けは、前猿投であり前常滑である。平安・鎌倉期、今からおよそ1000年程前、この半島一帯には多くの窯が点在し、日々もくもくと煙が天に登っていた。現在、確認されているだけでも1500基の窯跡が存在する。
しかし多くの理由で以って古渥美は丹波、唐津、信楽のように現代窯業地への連続をみる事なく歴史の闇へ消える事となった。
その理由の一つは独特な胎土の性質がある。他産地と比べ砂分と鉄分が過多な事であり、結果、造形性に乏しく焼成時も高温に必要以上に留意しなければならない。要は初心者、素人に不向きな土である事に他ならない。
又、古瀬戸を中心とする日本陶磁史上の本格的施釉陶技術確立時、この地に長石という釉制作上最も基本となる鉱物が産出しなかった点も大きく上げられる。
そして古渥美陶の庇護者であった奥州藤原氏が源頼朝の奥州攻めに合い、衰退していった事も大きく関係している。